バラ好きなら、きっと多くの方が「ルドゥーテ」の名を耳にしたことがあることでしょう。1759年生まれのルドゥーテは、精密なバラの絵を描いた植物画家として知られます。今回は「バラの画家」として今も多くの方に愛されているルドゥーテと、彼の描いたボタニカルアートについて詳しく紹介します。


ルドゥーテはフランス革命前後の激動の時代を生きた画家

▲ピエール・ジョゼフ・ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redouté)(1759~1840)

エール・ジョゼフ・ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redoutéは、1759年、現在のベルギー領、サン・ユベール村に生まれます。サン・ユベールは、当時はフランスの支配下にありました。

 

フランスはブルボン王朝終盤の、ルイ15世の時代。周辺諸国との戦争によりブルボン王朝の財政は逼迫し、1774年にルイ16世が即位するものの、民衆によるバスティーユ襲撃を端緒として勃発したフランス革命により、ルイ16世は1793年斬首刑になります。

 

その後、フランス革命後の混乱を収めて台頭したのがナポレオンです。数々の戦争で成功をおさめたナポレオンは、1804年「フランス人民の皇帝」の座に就きます

 

ナポレオンが皇帝に即位した1804年は、ルドゥーテ45歳の年でした。ルドゥーテは、フランス革命前後の、まさに激動の時代を生きた画家だったのです。

 

画家の家系に生まれ、マリー・アントワネットに仕えた経験も!

▲『マリー・アントワネット』エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画(1783年)

ドゥーテは、代々画家の家系の3人兄弟の次男に生まれました。父親のジャン=ジャック・ルドゥーテは宗教画を多く描いた画家で、ルドゥーテは幼い頃から父の仕事を手伝っていたそうです。13歳で修行に出たルドゥーテは、当初オランダに行きます。当時のオランダでは、果物や花を描く静物画が人気でした。

 

父の死後、1782年、一足早くパリに出て舞台装飾画家をしていた兄のもとで、23歳のルドゥーテも仕事をすることになります。パリでの仕事のかたわら、ルドゥーテは王立植物園(現パリ植物園)に出かけ、花の絵を描いていました。版画の技法に出会うのもパリでのことです。

 

植物学者レリティエとの運命的な出会い

こで、運命的な出会いがありました。アマチュア植物学者シャルル・ルイ・レリティエ・ド・ブリュテル(Charles Louis L’Héritier de Brutelle)との出会いです。当時、パリ森林河川局の監督官をしていたレリティエは、植物に強い興味をもち、独自に研究をしていました。1784~1785年にかけて、レリティエは2冊の希少植物についての著書を出版します。この本の図版を作成したのがルドゥーテだったのです。

 

レリティエの推薦もあり、ルドゥーテは1789年ごろルイ16世の王妃マリー・アントワネットに仕え始め、宮廷画家として「博物蒐集室付素描画家」の称号を得ています。短期間ではありますが、マリー・アントワネットに植物画の手ほどきをしたとも伝えられています。

 

ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌのお抱え画家として、植物図譜の図版を担当

▲『マルメゾンの庭園に腰掛けるジョゼフィーヌ』ピエール=ポール・プリュードン画(wikiより)

ランス革命によりルイ王朝は途絶え、その後台頭してきたナポレオンが1804年フランス皇帝に就任します。その妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Joséphine de Beauharnais)は、ナポレオンが皇帝になったことで皇妃にまでのぼりつめたものの、子どもができなかったことを理由にナポレオンから離婚されてしまいます。

 

▼ジョゼフィーヌについて詳しくは、こちらをご覧ください

 

最高傑作『バラ図譜』の完成


Les Roses バラ図譜

ョゼフィーヌはとても植物の好きな女性で、居城のマルメゾン城に巨大な温室を作り、数々の世界中から集めた珍しい植物を庭に植えていました。収集された図譜を作ろうということになり、その図版をルドゥーテが担当することになりました。

 

こうして最初に制作されたのが『マルメゾンの庭園』(1803~1805年 全2巻)です。ジョゼフィーヌの支援のもとに制作された『ユリ科植物図譜』(1802~1816年 全8巻)でもルドゥーテが図版を担当しました。さらにマルメゾン城に集められた250品種にのぼるバラの図譜を作ろうとルドゥーテはジョゼフィーヌに提案したのですが、その年(1814年)、ジョゼフィーヌは病死してしまいます。

 

ジョゼフィーヌからの金銭的支援が受けられなくなったルドゥーテは、なんとか費用を工面して『バラ図譜』(1817~1824年 全3巻)を刊行し、これを亡きジョゼフィーヌに捧げたといわれます。

 

 

初版本の『バラ図譜』では、169枚のバラの絵と、1枚のバラのリースの口絵(上記の絵)からなる170枚の原画をルドゥーテが描きました。中には現存しない品種も含まれており、当時のバラを知る植物学的に貴重な資料となっています。

 

高度な銅版画技法を採用

▲ルドゥーテの絵をアップで見ると点描の集まりなのが分かる

たしたちがよく目にするルドゥーテの植物画は、じつは銅版画に水彩絵の具で彩色されたものです。ルドゥーテは羊皮紙に原画を描きその原画を元に彫り師が銅板に彫り銅板を使って刷り師が刷った上から水彩絵の具で彩色して仕上げられています

 

それぞれの図版の下には、左に原画を担当したルドゥーテの名前、中央に刷り師の名前、右に彫り師の名前が書かれています。これにより、多くの人がルドゥーテの植物画を手にすることができたのです。

 

しかもルドゥーテが採用した銅版画技法は、当時イギリスで開発された高度なスティップル・エングレーヴィング(点刻彫版)を応用したものでした。通常の銅版画が線で表現されるのに対して、スティップル・エングレーヴィング技法では、点で表現されます。とても手間のかかる技法ですが、これにより植物の柔らかさが表現されています。

 

ルドゥーテの『バラ図譜』は、大成功をおさめます。

 

ルドゥーテが羊皮紙に描いた原画は、後に国に買い上げられルーブルの図書館に保管されましたが、火災によりほぼ焼失したとされています。が、いくつかは現存しているものもあります。

 

66歳でレジオン・ドヌール勲章を授与


美花選 【普及版】 [ ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ ]

『バラ図譜』を刊行した後のルドゥーテは、植物画の講義をしたり、著名人の子女への手ほどきをして過ごしました。『美花選』(1827~1833年)を出版しますが、それまでの植物図版とは異なり、さまざまな花を束ねたブーケのようなものが主でした。

 

1825年、レジオン・ドヌール勲章を授与。

 

名声もあり、金銭的にも恵まれていましたが、浪費壁があったため生活は常に苦しかったといいます。81歳で死去。

 

まとめ

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ボタニカルアートの最高峰と称される『バラ図譜』の画家ルドゥーテについてまとめてみました。フランス革命前後の激動のフランスを生きた彼の人生は、とても恵まれたものだったのだなぁと思わずにいられません。

 

ルイ王朝最後の王妃マリーアントワネットに仕え、その後はナポレオン皇妃ジョゼフィーヌに仕え、四季咲き性の中国バラがヨーロッパに渡った時期に250品種ものバラを集めていたジョゼフィーヌのバラ園のバラを描いて人気になったというのですから。困窮に悩む民衆とかけ離れた生活を送り、ついにレジオン・ドヌール勲章を授与される、誰もがうらやむほどの人生です。

 

ルドゥーテの描き方は精密で、植物学的にも高く評価されています。さらに今では失われてしまっている品種も描かれているというのですから、学術的価値は今なお大変高いといいます。

 

ルドゥーテは「花の画家」「バラの画家」という呼称の他に「花のラファエロ」「バラのレンブラント」と呼ばれることもあります。

 

そんな恵まれた人生を送ったルドゥーテですが、浪費壁があり、常に困窮していたというから面白いですね。死の間際には、銀食器を売らねば生活もままならなかったといいます。最高傑作とされる『バラ図譜』を完成させた後、ジョゼフィーヌの死もあって、すっかり気持ちが萎えてしまったのかもしれないなぁ、と、いろいろ想像してしまいます。

 

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