クリームイエローの花びらにピンクの縁取り、花径15cmの超巨大輪のバラ「ピース」。バラにはさまざまな秘話をもつ品種がありますが、この「ピース」ほどドラマティックな物語は今後も生まれないでしょう。「ピース」誕生秘話をお届けします。


「ピース」は20世紀を代表するバラ

▲クリームイエローにピンクの覆輪が美しい「ピース」

ースは美しい花色をもつ花径15cmの超巨大輪の存在感あるバラです。

 

全米バラ協会賞受賞(1945年)、AARS受賞(1946年)、イギリスバラ協会 金賞受賞(1947年)と、さまざまなバラコンテストでの受賞歴があり、ついに1976年には世界バラ会議で「バラの殿堂入り」を果たした最初の品種となりました。「ピース」以降「ピース」を親にさまざまな優れたバラの品種が作出され、「ピース」は交配親としても価値ある品種です。

 

紀元前の昔から人と深いかかわりをもつバラには、さまざまな逸話があります。なかでもこの「ピース」の誕生秘話はとてもドラマティック。品種としての完成度の高さ、交配親としての価値、さらに「ピース」に秘められた誕生のドラマから、「ピース」は20世紀を代表する名花となりました。

 

今回は、ロザリアンならきっと知ってほしい「ピース」誕生秘話を紹介します。

 

「ピース」は1935年ごろ、フランシス・メイアンにより創り出されたが・・・

▲フランシス・メイアン(中央)、両親のアントワーヌとグロリア・メイアン(1919年)出展/wiki

話をもつバラは数多くありますが、中でもピース誕生秘話は、まさに「奇跡の物語」といえます。

 

世界的なバラの育種会社フランスのメイアン (Meilland)社の創設者アントワーヌ・メイアンと妻グロリアの間に、1912年に生まれたのがフランシス・メイアン(Francis Meilland)です。

 

1935年ごろフランシスは、黄色と赤の覆輪のバラを狙ってさまざまなバラの交配を繰り返していました。年間800本にものぼるさまざまな交配のバラを栽培していたフランシスは、「3-35-40」という番号を振り分けた照り葉のバラに見惚れます。

 

第二次世界大戦のさなか、「3-35-40」の番号をもつバラ苗がアメリカに渡る

▲ポーランド侵攻時のドイツ軍戦車(1939年)  出展/wiki

ランシス27歳の年、1939年の8月にドイツがポーランドを侵攻したことをきっかけにフランス、イギリスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発します。

 

翌年1940年、フランスはドイツに降伏。1941年11月、メイアン一家の住むリヨンがナチスの占領下に置かれる直前のこと、フランシスはリヨンのアメリカ総領事から一本の電話を受け取ります。当時のリヨン駐在のアメリカ総領事ウィットギル氏とフランシスは、バラを通じて交流があったのです。

 

「私はアメリカに帰国しなければいけない。500gまでの小包なら持って行こう」

 

アメリカ総領事ウィットギル氏の申し出に、フランシスは「3-35-40」と表書きした小包を託します。あの照り葉のバラの苗です。

 

同時期にフランシスは敵国ドイツにも、イタリアにもこのバラの苗木を送っています。そして父のアントワーヌ・メイアンと相談の末、「3-35-40」の番号をもつバラを、早くに亡くなっていたフランシスの母に捧げることに決め「マダム・アントワーヌ・メイアン」と名付けて1942年に発表します。

 

その後リヨンでは、数万人の死傷者を出したナチスとレジスタンス軍との壮絶な戦いが繰り広げられます。これにより、フランシスの手元にあった「マダム・アントワーヌ・メイアン」は、失われてしまいます

 

戦争終結の年、「3-35-40」は「ピース」と名付けられる

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▲平和の象徴となった「ピース」

イツ、イタリアに渡った苗木は消息を絶ってしまいますが、アメリカに渡った苗木はフランシスの友人コンラッド・パイル社のロバート・パイルの手元に届いていました。ちなみにコンラッド・パイル社は、後にアメリカの種苗会社「スター・ローゼズ」となります。

 

ロバート・パイルの手元で大切に育てられた「3-35-40」は、その優れた資質が認められ、1945年4月29日全米バラ園芸協会により名前をつけられようとしていました。まさにそのとき、ベルリン陥落のニュースが飛び込んできて、アメリカじゅうが歓喜にわいたのです。戦争の終わりを信じ、戦争のない世界を願ってそのバラは「ピース」(peace)と命名されました。

 

サンフランシスコで国際連合設立の世界会議が行われた折、コンラッド・パイル社から49人の各国代表の部屋にメッセージをつけて1本のピースの切り花が届けられました。メッセージにはこう、書かれていたそうです。

 

「このバラはベルリン陥落の日に、パサディナで開かれた太平洋バラ会議で「ピース」と命名されたバラです。私共はこの「ピース」が世界の恒久平和を願う人々の想いに役立って欲しいと念じております」

 

なんともドラマティックな、まさに奇跡の物語ですね!

 

一方、消息不明になっていたドイツとイタリアに送った苗木もそれぞれ大切に育てられており、ドイツでは「グロリア・ダイ」(神の栄光)、イタリアでは「ジョイア」(歓喜)と命名され発売されどちらも人気を得ていました。

 

こうして「ピース」(米名)は、「マダム・アントワーヌ・メイアン」(フランス名)、「グロリア・ダイ」(ドイツ名)、「ジョイア」(イタリア名)の計4つの名前を持つことになったのです。

 

日本最初のピースはGHQ将校からもたらされた!

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untitled / t-miki
 

後、敗戦からわずか3年後の1948年に、日本の「ミスター・ローズ」と呼ばれる鈴木省三氏らの尽力により、銀座の資生堂パーラーで「バラ展」が開催されます。戦時ちゅうに「これは麦畑だ!」と偽って大切に守られてきた数百種類のバラたちでした。

 

これに感銘を受けたGHQ将校カーマンが、「ここにはまだピースがありませんね、来年は是非お届けしましょう」と、米軍用機に乗せて20本あまりのピースを鈴木省三氏に贈りました。これを見た鈴木省三氏は、それまで見たこともない大輪のバラに仰天したといいます。

 


“Peace” / Geoff J Mckay

 

ピースは翌年に横浜で開催された貿易博覧会の「第2回バラ展」で展示されます。こうして日本に平和を象徴するバラ「ピース」がもたらされたのです。

 

戦争の中で必死にバラを守り続けた人たちがいたからこそ、わたしたちは今日、たくさんのバラを身近に楽しむことができるのです。

 

まとめ

奇跡のような「ピース」誕生秘話をお届けしました。既にお読みになった方もいらっしゃると思いますが、「ピース」の品種紹介ページに掲載されているものをまとめなおしたものです。

 

当サイトのバラの記事も増えてきて、古い記事が見つけにくくなっているため、時間のあるときに少しずつ整理をしています。その一環で、バラにまつわる物語として「ピース誕生秘話」を単独の記事にしました。

 

しかし、何度読んでも奇跡としか言えないすごい物語です。フランシス・メイアンがこの品種を創りだしただけでも奇跡的に素晴らしいのに、第二次世界大戦のさなか、敵国であるドイツやイタリアにも苗を送ってこのバラを守ろうとした行動力、それに応えたそれぞれの国のナーセリー。バラが人々を繋いでいたんですね。

 

そしてアメリカで品種名を考えていたその時に飛び込んできた終戦の報せ。つけられた「ピース」の名称。

 

敗戦国日本でも、バラが人を繋ぎました。ミスターローズ・鈴木省三氏とGHQ将校との交流。アメリカ軍用機に乗せられ運ばれた「ピース」は、鈴木省三夫人によると「まるで棺桶のような!」大きな箱に入れられ大事に運ばれたそうです。

 

わたしが撮影したピースの写真はやや淡い色をしていますが、最後に載せている海外の写真は色が濃いですね。バラは全体にヨーロッパの冷涼な気候の方が花色が濃く深くなる傾向があるようです。濃い色のピースも美しいです。

 

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