やわらかなクリームイエローの花びらの先にピンク色が載る美しい超巨大輪のバラ。「ピース」は、一瞬で誰もが魅了されてしまうほどの輝くばかりの美しさを誇るバラです。しかも「ピース」には、ほぼ奇跡ともいえる素晴らしい逸話が残っています。「ピース」を詳しく紹介しましょう。
ピース
Peace
DATA
20世紀を代表する、歴史的にも交配親としても価値の高い名花、それが「ピース」
クリーム・イエローの花びらの縁をピンク色の覆輪が彩る花径15cmにもなる巨大輪のバラが「ピース」です。
1946年・AARS受賞、1947年・イギリスバラ協会「金賞」受賞、そして1976年にイギリスのオックスフォードで開催された世界バラ会議で、初代の「殿堂入りのバラ」として選ばれたことでも有名です。これ以外にも数々の賞を受賞しており、ピースはバラの名花中の名花といえます。
「世界一有名なバラは?」と問われたら、きっと多くのロザリアンが「ピース」と答えるでしょう。花色も美しく巨大輪のこのバラはとても存在感があり、見た人を一瞬で魅了してしまうほどの力があります。
「ピース」は第二次世界大戦後の平和のシンボル
このバラが発表されたのが1945年、品種名は英語で「平和」を意味する「peace」です。こう聞けば、誰でもピン! ときますよね。ピースは第二次世界大戦が終結した年に、世界の平和を願って名づけられたバラなのです。
国連発足やサンフランシスコ講和会議にも飾られるなど、戦後の平和のシンボルとされました。日本でもミスター・ローズ鈴木省三氏とGHQ将校とのピースにまつわる逸話が残されています。
数々の名花を生んだ、交配親としても重要なバラ
▲ピースを親にもつ「ガーデンパーティ」を片親に作出された「ダブルデライト」
バラとしては、花色が美しいことと、花径がずば抜けて大きいことが特徴です。バラの花は8~13cmが大輪、それ以上を巨大輪と呼び分けていますが、ピースは花径15cmもある堂々とした巨大輪です。
ピースを交配の親として生み出された名花は数多くあります。「ドゥフトボルケ」「クリスチャン・ディオール」「ダブルデライト」「ロイヤル・ハイネス」「ガーデン・パーティ」「金閣」「真珠」などなど、そうそうたる名花を生んだのがピースです。これらのピースを交配の親とする品種群は「ピース・ファミリー」と呼ばれています。
ハイブリッド・ティーの交配に強い影響を与えたピースを境に交配の歴史が変わったと見る専門家もおり、ピース以前の品種群を「アーリー・ハイブリッド・ティー」として、それ以降のハイブリッド・ティーのバラと区別する場合があります。
定期的薬剤散布が必要
▲散った花びらも美しい!
ピースは咲き始めはオレンジがかった黄色、開花するにつれ花びらの先にピンク色の覆輪が現れます。花色は春・夏よりも秋の方が美しく発色します。
ピースの樹はがっしりとした株立ちで、大きな照り葉をもちます。育てやすさの目安にもなるAARS賞を受賞しています(当時としては強健で作りやすい品種でした)が、やや黒点病やうどんこ病を発症しやすいところがあるようです。定期的な薬剤散布が必要です。
「ピース」は、第二次世界大戦の戦禍をくぐりぬけた奇跡のバラ
逸話をもつバラは数多くありますが、中でもピース誕生秘話は、まさに「奇跡の物語」といえます。
世界的なバラの育種会社フランスのメイアン (Meilland)社の創設者アントワーヌ・メイアンと妻グロリアの間に、1912年に生まれたのがフランシス・メイアン(Francis Meilland)です。
1935年ごろフランシスは、黄色と赤の覆輪のバラを狙ってさまざまなバラの交配を繰り返していました。年間800本にものぼるさまざまな交配のバラを栽培していたフランシスは、「3-35-40」という番号を振り分けた照り葉のバラに見惚れます。
第二次世界大戦のさなか、「3-35-40」の番号をもつバラ苗がアメリカに渡る
フランシス27歳の年、1939年の8月にドイツがポーランドを侵攻したことをきっかけにフランス、イギリスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発します。
翌年1940年、フランスはドイツに降伏。1941年11月、メイアン一家の住むリヨンがナチスの占領下に置かれる直前のこと、フランシスはリヨンのアメリカ総領事から一本の電話を受け取ります。当時のリヨン駐在のアメリカ総領事ウィットギル氏とフランシスは、バラを通じて交流があったのです。
「私はアメリカに帰国しなければいけない。500gまでの小包なら持って行こう」
アメリカ総領事ウィットギル氏の申し出に、フランシスは「3-35-40」と表書きした小包を託します。あの照り葉のバラの苗です。
同時期にフランシスは敵国ドイツにも、イタリアにもこのバラの苗木を送っています。そして父のアントワーヌ・メイアンと相談の末、「3-35-40」の番号をもつバラを、早くに亡くなっていたフランシスの母に捧げることに決め「マダム・アントワーヌ・メイアン」と名付けて1942年に発表します。
その後リヨンでは、数万人の死傷者を出したナチスとレジスタンス軍との壮絶な戦いが繰り広げられます。これにより、フランシスの手元にあった「マダム・アントワーヌ・メイアン」は、失われてしまいます。
戦争終結の年、「3-35-40」は「ピース」と名付けられる
ドイツ、イタリアに渡った苗木は消息を絶ってしまいますが、アメリカに渡った苗木はフランシスの友人コンラッド・パイル社のロバート・パイルの手元に届いていました。ちなみにコンラッド・パイル社は、後にアメリカの種苗会社「スター・ローゼズ」となります。
ロバート・パイルの手元で大切に育てられた「3-35-40」は、その優れた資質が認められ、1945年4月29日全米バラ園芸協会により名前をつけられようとしていました。まさにそのとき、ベルリン陥落のニュースが飛び込んできて、アメリカじゅうが歓喜にわいたのです。戦争の終わりを信じ、戦争のない世界を願ってそのバラは「ピース」(peace)と命名されました。
サンフランシスコで国際連合設立の世界会議が行われた折、コンラッド・パイル社から49人の各国代表の部屋にメッセージをつけて1本のピースの切り花が届けられました。メッセージにはこう、書かれていたそうです。
「このバラはベルリン陥落の日に、パサディナで開かれた太平洋バラ会議で「ピース」と命名されたバラです。私共はこの「ピース」が世界の恒久平和を願う人々の想いに役立って欲しいと念じております」
なんともドラマティックな、まさに奇跡の物語ですね!
一方、消息不明になっていたドイツとイタリアに送った苗木もそれぞれ大切に育てられており、ドイツでは「グロリア・ダイ」(神の栄光)、イタリアでは「ジョイア」(歓喜)と命名され発売されどちらも人気を得ていました。
こうして「ピース」(米名)は、「マダム・アントワーヌ・メイアン」(フランス名)、「グロリア・ダイ」(ドイツ名)、「ジョイア」(イタリア名)の計4つの名前を持つことになったのです。
日本最初のピースはGHQ将校からもたらされた!
戦後、敗戦からわずか3年後の1948年に、日本の「ミスター・ローズ」と呼ばれる鈴木省三氏らの尽力により、銀座の資生堂パーラーで「バラ展」が開催されます。戦時ちゅうに「これは麦畑だ!」と偽って大切に守られてきた数百種類のバラたちでした。
これに感銘を受けたGHQ将校カーマンが、「ここにはまだピースがありませんね、来年は是非お届けしましょう」と、米軍用機に乗せて20本あまりのピースを鈴木省三氏に贈りました。これを見た鈴木省三氏は、それまで見たこともない大輪のバラに仰天したといいます。
ピースは翌年に横浜で開催された貿易博覧会の「第2回バラ展」で展示されます。こうして日本に平和を象徴するバラ「ピース」がもたらされたのです。
戦争の中で必死にバラを守り続けた人たちがいたからこそ、わたしたちは今日、たくさんのバラを身近に楽しむことができるのですね!
枝替わりに「つるピース」などがある!
▲「シカゴピース」
枝代わりに「つるピース」、表が赤、裏が淡い黄色の「クローネンブルグ」、全体に濃いピンク色で中心が黄色の「シカゴピース」などがあります。
口コミと値段の目安
バラ苗ショップからのコメント
第二次世界大戦の1945年に平和への願いをこめて名づけられた名花。半剣弁高芯咲きで、クリームイエローに桃色覆輪の巨大輪。バラの改良の歴史上、きわめて重要な品種。「ピース」を知らずしてバラを語るべからずと言わしめる品種。WFRS「バラの栄誉の殿堂」入りを果たした第一号品種。(篠宮バラ園)
ロザリアンの口コミ
ピースは咲き始めはなんてことない剣弁咲きの黄色のバラです。しかし開花が進むと柔らかなクリーム色になり、花びらのふちに甘いピンクがのります。夢見るようなすばらしい色合いです。ピースのこの透明感のある色彩と大きな花のインパクトは確かにすごい。
残念ながら香りはありません。
一年を通してぽつりぽつりと開花しますが、花付き自体はあまり良くない印象。・・・黒点病を上手く抑えられれば違うかもしれませんが。
バラ苗の値段の目安
予約苗 バラ苗 ピース 国産大苗6号スリット鉢ハイブリッドティー(HT) 四季咲き大輪 黄色系【2019年2月上旬順次配送】
【予約販売】バラ苗 2年大株苗シカゴピース 大輪 4号鉢【11月中旬以降、順次出荷予定】
バラ 苗 【つるバラ ピース (CL) 大輪 返り咲き】 3年生 接ぎ木特大苗 (長尺苗) アーチ向け 薔薇 ローズ バラ の 苗 【時間帯指定不可】
まとめ
第二次世界大戦直前にフランスで作出され、戦禍を逃れてアメリカで発表されたピース。人々のバラへの情熱と平和を願う心が響いてくるエピソードが胸を打ちますね。しかも初代の殿堂入りを果たしたバラとしても有名ですから、どちらのサイトでもたくさんの方がエピソードを綴っていらっしゃいました。
そのせいか、販売しているショップもどこも同じ文句ですし、育てているロザリアンさんも実際に育ててみての感想を書いている方は少なかったです。きっと書くことがありすぎるせいですね!
クリーム・イエローの花びらにピンクの覆輪がかかるこのバラは確かに美しいのですが、どうやら品種としては劣化しているという記述を見かけました。作出されてから70年以上。作出当時の輝くばかりの美しさは、現在見られるピースとは比べ物にならないほど素晴らしかったというのです。
そう聞くと、作出当時のピースが見てみたくてたまらなくなります!
お世話になります。
ピースのことを調べております。
大変興味深く読ませていただきました。
この記事のもとになったピースにまつわる逸話を書いてある書籍があれば教えていただきたいと思います。
よろしくお願い申し上げます。
笠岡めぐみさま、コメントをありがとうございます。
この記事は、どこかの書籍にまとめて載っているものを転載したような
そういうものではありません。
すべてネットで広く情報を収集し、可能なかぎり一次情報にあたり、
それこそパズルのピースのように組み上げ直したものです。
確かに骨子となる記事はありましたが、
なにぶん古い記事のため、出展がどこだったか・・・。
メイアン社のフランスのサイトだったような気もします。
他にも京成バラ園のメイアン社の紹介記事や、
アメリカの種苗メーカーのサイト、
日本にピースがもたらされた当時を知っているバラ会の会員さんの個人ブログなど
丹念に調べた覚えがあります。
あいびー
あいびーさま
お世話になります。
早急なご対応ありがとうございます。
また、ご丁寧にお答えいただき、重ねてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
自分でもいろいろと調べてみます。
笠岡めぐみ
笠岡めぐみさま。返信恐れ入ります。
ぜひ、ご自身でいろいろ調べてみてください。
ここには載せなかったことも、たくさんありますよ^^
あいびー
こんにちは&はじめまして☆
私が、幼少の頃、伯父が高松でピースを中心とした切り花栽培をしていました。毎日東京直行のプロペラ機に乗せて、東京の花屋さんに卸していたのが自慢でした。
ピースの巨大で美しい花に心を惹かれた物です。
その後、近くをバイパスが通ることを察知した伯父は、未練無くこの仕事を畳んで仕舞いました。
引き際の佳さは、現在の自分にも生きています。
歳月が流れ、最近になって写真の被写体として、バラを観ることが多くなり、この名前を思い出し、調べて此処に来ました。
改めて、その誕生のドラマと、日本にやって来た出自に感銘です。
伯父は時期を考えると、苦労して入手を図り、戦後の混乱期を凌いだ事をも思い起こされます。
改めて美しい名前を持つ美しいピースに感動です。
サイモンさま、コメントありがとうございます。
伯父さまがピースの切り花栽培をされていた時期は戦後まもなくでしょうか?
おそらくですが、第1回バラ展などの影響からピースが人気になり
庶民のためではなく、海外の外交官やお金持ちの需要が高かったのでしょうね。
飛行機で輸送するくらいですから、とても高価なものだったことでしょう。
伯父さまの時代を読むセンスの高さをうかがわせます。
そして最後に書きましたが、当時のピースは、
今のピースよりもずっと美しかったと言われています。
やはりサイモンさまの記憶のピースも素晴らしく美しいのでしょうね。
実際にご覧になられた経験が羨ましいです^^
ピースの物語を調べたとき、
「ピースを主役に映画ができる!」
とすら思ったものです。
本当に、奇跡のバラにふさわしい名花だと思います。
これ以上のバラ物語は今後も出ないでしょうね。
あいびー
76歳男です。
バラのピースで気になる事があって色々調べてますが、花のいきさつ
しか解らない。
私の疑問は、
1946年渋谷で産まれて、2歳の時文京区駒込に引っ越した時に
沢山の花の中にピースのバラが有った其の後埼玉県戸田市に引っ越したとき、ピースも引っ越しました。
私の疑問は、何故ピースがそこに有ったのかがわからないのです?
場所は当時理化学研究所の裏門の前で理化学研究所の中に有った
酒造工場「利久」の倉庫地でした。
植松寿信さま、コメントをありがとうございます。
伝わっているところによると、GHQにより日本にピースがもたらされたのが1948年。
植松さまが2歳でご覧になったという年も1948年。
GHQがアメリカから送ってきたピースは切り花のはずなので、同じ年に根つきのピースがあるのは
整合性が取れませんね。
当時を知る鈴木省三氏はもう鬼籍に入られているので、
詳しい経緯は分かりませんが、可能性として考えられるのは2つでしょうか?
GHQから送られたピースを切り継ぎしたものが育っていて、
植松さまがご覧になったのが2歳ではなくもう少し後の3~4歳だったとか。
もしくは、GHQ以外のルートで既に日本にピースが持ち込まれていたとか。
日本で独自にピースのようなバラを開発していた可能性はないと思います。
もしそんなバラがあれば、今に伝わっていないはずがないですから。
当時を知る理化学研究所の方がいらっしゃれば経緯が分かるのかも知れませんが、
すみません、わたしには分かりません。
ただ、とても面白い話だと思いますね。
わたしはこのサイトを始める前に少し素人小説を書いていまして(^^;
かつての自分の記憶をたどってピースを調べていくことで
隠された歴史の真実にたどり着くという
そんな粗筋が頭の中によぎりました。
植松さまのお力になれませんでしたが、
コメントを興味深く拝読しました。
あいびー